「技術革新は21世紀の生活にどのように貢献すべきか?」

2020 Scienceブログの12月は、Maynardさんが出したお題「技術革新(technological innovation)は21世紀の生活にどのように貢献すべきか?」にゲストが回答していくゲストブログ特集。その経緯は12月10日のブログ記事を参考に。12月14日から18日まで合計10人。それぞれがとても刺激的なのでじっくり読んでみた。おすすめ。

21世紀のためのバイオポリティクス

著者はCenter for Genetics and Societyの副センター長であるMarcy Darnovsky氏。1933年のシカゴで開催されたWorld's Fairのテーマが「技術革新」であり、そのモットーが「科学が発見し、産業が応用し、人がそれに合わせる」だったというのはおもしろい。著者はわれわれはここからどれくらい進歩しただろうかと問う。そして、新規技術のイノベーションについて検討するために必要な5つの原則を提示。

誰のためのイノベーション?何のためのイノベーション?健常者優先主義の影響

著者はCalgary大学の准教授であるGregory Wolbring氏。科学技術イノベーションの話にいつもマイノリティ、特に非健常者の視点が欠けているという指摘。"ableism"とは「健常者優先主義」という意味。本当に責任ある科学技術発展には非健常者の視点が不可欠であるという主張。イノベーションはいったい誰のため、何のためなのかともう一度考えてみる必要があるなあ。

安全性を超えて:新規技術についてのいくつかの大きな問い

著者は、Friends of the Earth AustraliaGeorgia Miller氏。表面的な「リスクvsベネフィット」の比較を超えて、そのフレーミングに立ち返って再考すべきという提案。社会的課題の解決には、ありえない夢を振りまく新規技術の開発に期待するよりは、既存技術の有効利用を妨げている社会経済システムの改革が先決じゃないの?と指摘。要するに、新規技術も社会的課題解決の手段に過ぎず、「新規技術そのものの是非」という狭いフレームで考えるのではなく、既存技術の活用や政治的・経済的解決策も含めた広いオプションの中から何がベストかを考えるべきということ。これもおもしろい。

栄養十分な世界にとってのイノベーション:技術にとっての役割は何か?

著者は食糧・農業・開発問題の専門家であるGeoff Tansey氏。ここでも、技術革新が飢餓や貧栄養といったグローバルな課題を解決することは決してないと指摘。なぜならそれらは本質は技術的問題ではないから。続いて、知的財産権の問題を指摘し、さらに「すべての新規技術は全般的に過剰に宣伝され、かならず意図せぬ帰結をもたらした」と述べる。最後に食物をめぐる倫理的フレームワークを例示。

立ち止まって考えよう:ラッダイト的視点

著者はNRDCのJennifer Sass氏。あえて悪名高い「ラッダイト」と名乗るわけは、彼らは、自分たちの職が失われるだとか、職場環境が非人間的になってしまうという、新規技術の社会的影響を正しく予測していた点において優れていたからであり、その点がたいてい無視されて、「ラッダイト」という言葉は時代遅れという意味の「悪口」として使われる。ただし彼女も「新規技術そのものに反対しているのではない。実際、科学者としてイノベーションは好ましく思っている」と述べていて、要点は、もう少し慎重に「ラッダイト的視点」を取り入れようよ、という提言。

新しい責任あるイノベーションの時代

著者は英国ウェストミンスター大学のRichard Owen氏。タイトルはオバマ大統領の就任演説(和文)の「新しい責任の時代」から取っている。彼は元Environmental Agencyの職員。そこで学んだことは、イノベーションのスピードに、エビデンスに基づく規制は追いつけないということ。つまり、規制だけでは不十分で、それらを補完する「イノベーション過程に責任を埋め込む方法」が必要なのだ。EPSRCの研究資金公募に、研究提案の「リスク一覧表(risk register)」の提出を義務付けた。これは、提案研究に関連する環境・健康・社会的影響を予め検討し、時機にかなったやり方で管理してもらおうという願いが込められている。彼の昨年のES&T論文「規制を超えて:リスク価格付けと責任あるイノベーション」も併せて必読。

エコロジーとナノテクノロジー

著者はLoka Instituteでナノテクを扱っているRichard Worthington氏。コペンハーゲンCOP15に出席しつつ書かれた文章。環境保護運動の夜明けには、産業界のリーダーは環境保護主義は過激派というレッテルを貼った。これが環境やエコロジーの第1のフレーミング環境保護意識が広く行き渡ると、彼らは逆に環境保護主義を取り込み、自らグリーンであると主張し始めた。これが第2のフレーミング。さらに、現在は第3のフレーミングが進みつつあるという。ナノテクノロジーをその典型とする、技術主導の経済成長システムそのものが、(レトリカルに)生態系(エコシステム)として捉えられつつある。抽象的でわかりづらいんだけど、まあこんな感じ。

技術的ジレンマを逆転させる

著者はICTACFSのGeorge Kimbrell氏。ジレンマとは、先進国では技術依存がますます高まる一方で、途上国や環境に負荷を与えるため、「私たちは技術と共存し続けることができないけれども、私たちは技術なしの生活を想像できない」。このジレンマに対して2つのアプローチがあり、1つは自然の制約の中に留める「適性技術(appropriate technologies)」であり、もう1つが遺伝子や分子レベルの操作や地球規模の操作(ジオエンジニアリング)を通して自然の制約を取り払おうとするアプローチである。彼は当然後者に警鐘を鳴らし、「(科学)技術の時代」から「エコロジカルな時代」への転換を主張する。

被告、イノベーション

著者はサリー大学のTim Jackson氏。専門は、持続可能な発展。「落ち葉集め機」と「心肺バイパスポンプ」という2つのイノベーションを比較するにはどうすればよいかという思考実験。これはちょっとまとめるのが難しい。おもしろいけど。

21世紀の技術ガバナンス?ネド・ラッドならどうするか?

著者は、ETCグループのJim Thomas氏。ネド・ラッドは「ラッダイト」の語源になった人物。まずラッダイト運動の大ファンであることを告白。歴史家として、ラッダイト運動についての世間の誤解を解き、彼らは実は新規技術についてはもっとアンビバレントであったこと、そして、ある種の「(参加型の)テクノロジーアセスメント」さえ実施していたことを指摘。彼らは、はた織り機械を市場に引きずり出して、通りゆく人々に判断を仰いだ。これはパブリックコンサルテーションの原型だ。そしてこういう活動を現代の新規技術に応用するために3つの提案を行う。1つは、(手垢のついた言葉だけど)市民参加(public engagement)であり、市民陪審や市民委員会などを含む。2つ目は、グローバルな監視であり、その具体化として、ICENT(新規技術の評価のための国際協定)を提案。これはETCグループがあったらいいなと妄想する国連機関だ。3つ目は、集合知を使ったアセスメント(popular assessment)の提案。例えば、ウィキペディアの新規技術版である「テクノペディア」。うん、どれもおもしろいなあ。