閾値について考える

化学物質のリスク評価では,非発がん性物質や遺伝毒性のない発がん性物質については,閾値アリの仮定で参照値を導出することになっている.しかし,PMやオゾンといった一般環境での大規模な疫学調査が可能な物質の非発がん影響について,近年のしっかりした調査では(これ以下なら安全であるという)閾値が見つからない,あるいは,あったとしてもものすごい低いレベルであることが多い.このギャップをどう解釈したらいいのだろうか.
鍵となる概念は,感受性の分布だ.化学物質(もっと広く言うと,環境ストレス)に対する感受性に分布があることは,お酒や花粉症のことを思い出すとすぐに理解できるし,すでに遺伝子多型によってかなり説明可能な現象だ.個人レベルで見ると,これ以下なら健康影響が出ないという閾値をそれぞれが持っている.これは毒性発現メカニズムからも正当化できる.ただ,そのレベルに大きな個人差があって,その値の低い人から順に並べていくと,社会全体としてはまるで閾値がないように見える用量反応曲線が書けるのだ.
有害性情報の多くは,ヒト疫学でなくて,動物実験から得られている.動物実験では通常,同じ系統の動物をせいぜい50匹程度を対象とする.感受性の個人差が少ないことと,動物の数が少ないこと,その2つの理由から,閾値が導出されることはほぼ確実だ.でもこの閾値って人工的に生み出されたものにすぎない.
また,分子生物学などの発展によって,環境ストレスへの修復メカニズムやその結果としての閾値の存在可能性はますます強固になっている.あくまでも個人レベルでの話しだけど.だから,ある人は,遺伝毒性を持つ発がん性物質にさえ閾値があるのだと主張する.これは「個人レベル」では正しいのかもしれない.でも「社会レベル」ではそのまま当てはまらない.先に言ったように,感受性の個人差があるからだ.ここで議論がすれ違う.
放射性物質のリスク評価でも,閾値の有無については見解が真っ二つに分かれている.ここでもおそらく「個人レベル」の話(分子生物学)をしているのか,「社会レベル」の話(原子爆弾チェルノブイリの疫学)をしているのかによるギャップも寄与しているのだろう.
ポイントは,「個人レベル」の話をしているのか,「社会レベル」の話をしているのかだ.常にこれを区別して話を整理しないといけない.